1.はじめに
私達は、日本列島上で日本国民として生活しています。海外へ渡航するにも日本国発行のパスポートを持参し、日本国の保護を受けることができます。
それでは、日本国はいつ出来上がったのでしょうか? 現在、2月11日が「建国記念の日」として国民の祝日になっています。この日は、『日本書紀』に記された、神武天皇が日向から東征し大和橿原宮で即位した辛酉年の旧暦並月元日を、太陽暦に換算して導き出された日です。しかし、辛酉年自体が、この干支の年に「天命が革まり、帝王が変る」という中国伝来の思想に基づいたもので、さらに干支一巡60年の22倍に当る1320年を周期とする考えから、古代中央集権国家形成が進行していた661(斎明天皇7)年の辛酉年から1320年遡らせた辛酉年=西暦前660年を神武天皇即位の年としたものです。すなわち、神武天皇東征説話と中国の辛酉年革命説とが結びついて導き出された年代ですから、現在では史実とは考えられていません。
2.倭国の時代
一般に国名は、その地域の人々が名乗っても対外的に認知・承認されなければ実効を生じません。1932(昭和7)年に大日本帝国によって樹立された満州国が日本ほか数ヶ国以外から承認されず、日本の敗戦とともに崩壊し、現在では中国から「偽満」と呼ばれていることや、現代でも革命やクーデターで国家主体が変ると、主要な諸外国の承認が得られるか否かが問題となることからも明らかです。
斎明天皇時代も含めて7世紀まで、日本列島にある国は対外的に「倭国」と呼ばれ、その住民自身も自らの国を「倭国」と称していました。西暦前から中国人は日本列島の住民を「倭人」と呼んでいましたが、中国南北朝時代の宋(420〜478年)の歴史を記した『宋書』(巻97夷蕃伝倭国条)は「倭国は高麗の東南大海中にあり、世々貢職を修む」と述べて、倭讃・珍・済・興・武の歴代の王が朝貢し倭王に除されたことを記して、初めて「倭国」が認知されています。推古天皇の時の遣隋使を伝える『隋書』でも「倭国」であり、674(天武天皇3)年3月の対馬国からの銀産出を伝える『日本書紀』も「およそ銀の倭国に有ることは、初めて此の時に出(み)えたり」と記述していますから、7世紀後半まで朝廷はこの国の名を「倭国」としていました。『日本書紀』が記す神武天皇即位が百歩譲って史実だったとしても、その国は「日本国」では無く「倭国」であったはずです。
3.「日本」国号の始まり
701(大宝元)年に制定・公布された大宝律令で始めて「日本」の国号が使用されました。すなわち「公式令」の公文書として天皇が発布する詔書の様式を定めた詔書式条に、海外諸国へ出す文書の様式として「明神御宇日本天皇詔旨(あらひとかみと あめのしたしらす ひのもとのすめらが おほむごとらまと)」の冒頭の例文が記されています。大宝令に明記される以上、その制定以前に「日本」の国号が定まっていたとも考えられますが、それを裏付ける史料は存在しませんから、「日本国」は、701年に始まったといえます。
701年に任命され、翌年海を渡った粟田真人以下の遣唐使は、時の皇帝則天武后に帝都長安城の大明宮麟徳殿で拝謁し、「日本国」の国号を認められて、704(慶雲元)年8月に帰国しました。『続日本紀』は帰朝報告を、長江(揚子江)河口北岸の楚州塩城県に接岸した遣唐使が、中国側役人に「日本国の使者」と名乗ったと記しています。恐らくこれが外国人に「日本」と名乗った最初でしょう。「日本」は中国側が初めて聞く国名で、取り調べの結果、従来「倭国」と云った東方の国らしいと判明したようです。中国の役人達は倭国が日本国になった理由を理解できず、遣唐使もまた十分な説明ができなかったようです。唐の史書『旧唐書』は「日本」の由来について、「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にある故に日本を名とした」、「倭国の名が雅でないため改名した」、「日本は旧小国で倭国の地を併合した」との3説を併記しています。中国も当時、則天武后により「唐」から「大周」へ改名されていましたから、国名変更について寛大だったのかもしれません。遣唐使の帰朝直後に遣新羅大使が任命され、翌年に帰国しています。遣新羅使の日的を史書は記載しませんが、恐らく「日本国」の国名を唐も承認した旨を告げにいったものでしょう。とにもかくにも、701年に定めた「日本国」という新国名が、704年に諸外国に承認されたのでした。 |